雨 藍


五、


 夕食を終えると保智は約束通り春樹の家へ出かける。
 泊まってはこないと言うが、大して飲めない酒に酔い潰れて泊まらざるを得なくなるのは予想できた。母親は息子が出て行くとさっさと玄関に錠をしてしまう。
 雨漏りで客用の布団がダメになったというので、これ幸いに保智の布団を借りた。
 一緒に寝るかと辰馬を誘ってみると、夜目にもわかるほど顔を真っ赤にして逃げられてしまう。男同士で何をするわけでもないのにウブな反応が保智に似て面白い。

 そういえば昔はよく夜中に家を抜け出して裏口から忍び込み、寝ている保智を揺さぶり起こして一緒に寝てくれと布団に入れてもらったのを思い出した。
 その度に保智はうんざりした顔をするも一度とて嫌だとは言わず、自分が寝付くまでウトウトと必死に起きていた。

 迷惑だと思ったことはなかったんだろうか。
 今まで保智に何かを断られた記憶がひとつもない。というか、何も拒まないのだ。
 受け入れるか、諦めて妥協するか。
 自分の意思を押し殺してまで他人に合わせて、何を糧に生きているんだろう。


 仄暗い天井の梁を見ているうち、目が冴えて眠れなくなってきた。
 じっとりした潮風が滞留する蒸し暑い部屋を抜け出し、裏口の戸から外に出る。
 緩やかな丘の向こうに真っ黒い大海原が広がっていた。
 湿った草を踏み分け、足元に飛び出してきた蛙を蹴り飛ばし、実家の方へ歩いていく。家の前を素通りしてさらに進むと雑木林の入口に辿り着いた。林の中はすうっとした涼気に包まれ、潮風のべたつきも感じない。
 ほどなくしてぽつりと佇んでいる古寺に出迎えられる。
 規則的に連なった石畳に誘われるように、その石をひとつふたつと数えながら奥へ進んだ。

 行き着いたのは広い墓地。
 比較的真新しい墓石を探した。
 本当なら先祖代々の墓へ入るのだが、兄は結婚した時に自分の墓を作ったという。
 少し意外だった。
 父に反抗したことのないおとなしい兄がそんな形で自立を望んだのは、最後の最後に自由を求めた証なんだろうかと。年の離れた次男というだけで家業には一切携わらせてもらえず、野放しにされていた自分とは真逆。
 お互いに無いものねだりだったのかな、と闇に自嘲した。




 あまり飲めない口なんだと再三遠慮したのだが、長崎の人間は基本的に酒に強い。おまけに酒の味も濃い。江戸の酒が水のように思えるほどで、五杯も飲めば限界だった。
 春樹の嫁が「みんな道端で寝ちゃいそうだから泊まってって」と客間を用意してくれ、誠二と牧はその気でさらに酒量を増やした。
 しかし自分はやっぱり帰ると腰を上げ、名残惜しそうに引き止める友人達と別れる。
 少し足がもつれたが意識ははっきりしていた。何とか帰れそうだ。

 家に着くと玄関の戸に錠が掛かっていて呆気なく閉め出しを食らった。
 仕方なく裏に回り、小さな戸をくぐって勝手口へ入る。
 客用の布団が使えないと言っていたから甲斐は自分の部屋で寝ているだろう。起こさないよう忍び足で障子を開けると、布団は敷いてあっても中身は空っぽだった。
 半分跳ね上げられた掛け布団を見るにここで寝ていたのは確かなようだ。
 布団の中に手を突っ込んでみると温かさはなかった。

(辰馬のところか……?)

 辰馬が姉に惚れていると知って、甲斐は何かとちょっかいを出していた。といっても傍目にはずいぶん可愛がっているように見え、子供嫌いにしては手馴れたものだった。
 そろりと弟の部屋を覗きに行くと、腹を出して一人で寝ている。
 まさか両親と一緒ではないだろう。
 客間にもおらず、さてどこへ行ったのやら。

「あ……」

 肝心な所を見落としていた。
 自室に戻って部屋を見渡すと、やはり“無い”。
 刀と、甲斐の荷物に入っていた徳利が。

 ───酒なんか持ってきてどうするんだ?
 ───兄さんに土産。江戸の酒は飲んだことないだろうから。


 何もこんな夜中に行かなくても、と脱力した。明日一緒に行こうと夕食時に言っておいたのに、どうしてこうも突飛な行動をするのか。
 昔からそうだ。
 隣でおとなしくしているかと思えば急にどこかへ行ってしまう。
 そして、そういう時は決まって何か不満がある時だ。

 畳に溜息がこぼれ落ちる。
 とにかく行き先が分かっただけでも安心した。
 迎えに行こうか迷ったが、墓前では人に見せられないものもあるだろう。
 ああ見えてわりと繊細で神経質なのだ。

 空っぽの布団に自分の枕を追加し、半分あけて横向きに寝そべる。
 数年前に特注で大きめの敷布団に替えたが、男二人が仰向けで寝るにはさすがに狭い。
 酒が入っているせいか余計に蒸し暑くてしばらく寝付けなかった。
 それもほんのひと時で、すぐに深い眠りへと落ちていく。





「…………」

 はたと目を開けた。
 どれくらい眠っていたのか分からないが、外はまだ暗い。おまけに雨が降っている。海原に浮かぶ漁船の位置がだいぶ動いているところを見ると一刻半は経っているようだった。
 布団の半分は変わらず空っぽのまま。
 いくらなんでも長すぎるのではないか。

 寝間着の帯に刀を差してまた裏口から家を出る。
 甲斐の実家の前で一旦足を止めたが、そのまま雑木林の先の寺へ向かった。



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