雨 藍


四、


 何に苛立っているのか自分でもよく分からない。
 とにかく不愉快で、足早に港町を抜けると緩やかな坂をひたすら黙々と歩いた。


「ただいま。お邪魔します」

 まっすぐ能醍の家に向かい、開きっぱなしの戸を軽く叩いた。

「ん? おお孝太郎の末っ子! あやちゃん、甲斐が帰ってきたよ」

 框に座って草履をいじっていた保智の父親がつるっぱげの頭を光らせる。大事に生やしていたご自慢の顎髭はなく、五歳ほど若返ったように見えた。
 裏口の方から聞こえた張りのある太い声が母親。保智の姉・汐流と声が似ている。

「保智は一緒じゃないのか?」
「港で友達と喋ってるから置いてきた」
「そうか。入れ入れ、疲れただろう」

 片足だけ通していた草履を放り捨て、父親は荷物を奪い取るように持ってくれた。
 ほどなくして母親が洗い終えた大量の洗濯物を手に出てくる。

「おかえり。ってとこ悪いんだけど、先にこれ干すの手伝ってくれない?」
「お安い御用で」

 居間に入りかけた身を反転して洗濯桶を受け取ろうとすると、父親が「そんなの俺がやるよ」と手を出した。しかし干し方が下手で任せるのは嫌だと言われ、しぶしぶ居間に戻る。
 実家ではなくここへ直接来た理由を二人は何も聞いてこなかった。
 昔から自宅同然に出入りしていたせいもあり、他所の子という扱いをされたことがない。
 今でもそれが単純に心地よかった。

「おまえ背が伸びたねえ。保智と変わらないじゃん」

 干した洗濯物の隙間から顔を覗かせた母親が笑う。幾分か年の皺が目立つが、黒目のはっきりした目元に潔く刈り上げた短い髪がよく似合っていた。
 前はこのくらいしかなかったのに、と手で示された彼女の肩の高さをはるかに越え、海坊主のように見えていた父親とも今は大差ない。

「でも侍にしちゃ体格はイマイチだね。ちゃんと食ってんの?」
「そこそこには。まあ昔の方が大食いだったかな」
「魚はまだ好きなんでしょ。晩飯、イサキの刺身にでもするか」

 干し終えたら買ってこようかと申し出ると、あとで辰馬に行かせるからいいと言われた。
 タツマ……そういえば保智には弟が二人いるのだ。
 上の弟・智史(さとし)は知っているが、下は自分が長崎を出た時まだ母親の腹にいたはず。
 一昨年ここへ顔を出したのは明け方だった為、寝ていた彼らには会わなかった。

「智史と辰馬って何歳になったの?」

 記憶にある智史は四、五歳くらいだったか。父親似のつぶらな目をしていて、喋り方もどこか力の抜けたのんびり屋だった気がする。

「智史は十五、辰馬はもうすぐ十歳。そういや甲斐は辰馬を知らないんだっけね」
「今いる?」
「剣道の稽古。もうすぐ帰ってくるわ」

 智史の方は昨年から大工見習いで安芸へ行っているのだという。宮大工になるのが夢だそうで、保智の弟にしては立派な志じゃないかと感心した。
 姉の汐流は自分の実姉と旅行中だと聞き、そちらは一安心。両方とも会いたくない人間の最上位に値する。不在で何よりだ。



 今日はもう降らないだろうと思って干した洗濯物が、半刻ほどしてまた細々と降り出した雨に打たれている。母親は干し方にうるさいが雨に濡れるのは頓着しないらしい。竿ごと縁側に上げようとしたらほっといていいと言われた。

 保智はまだ港で話し込んでいるのか、酒場にでも寄っているのか。
 居間に寝転んで他愛ない会話をしていると、玄関の戸が勢いよく開いた。

「母さん、手拭い! 降ったり止んだり何なんだよ」

 これが辰馬か。
 まだ声変わりしていないが十歳の男子にしては低い方で、昔の保智の声にそっくりだった。
 身を起こして玄関まで顔を出す。

「おかえり。ついでにはじめまして、辰馬」
「え───……あっ」

 微妙に変な反応をされた。
 声と言わず見た目も保智にそっくり。筋肉質で背が高く、十五歳でも通用するだろう。
 辰馬は母親から受け取ろうとした手拭いを取り落として呆然と見上げてきた。

「……? えーと、麻績柴 甲斐。名前ぐらいは知ってる?」
「う、うん知っ…てる」
「あーこいつ由華にホの字なのよ、おまえ似てるからね。それより早く拭きな」

 手拭いを被せられて頭を叩かれた辰馬の後ろに、傘を差した保智が帰ってきた。

「ただいま。三人揃って玄関で何してるんだ?」
「辰馬が甲斐に惚れちゃったところ。ねー」
「なに言っ……! ちがっ、オレ、由華さんかと思って!」

 ああ、と複雑な表情で得心がいった保智はずぶ濡れで右往左往している弟の脇をすり抜けて框へ上がり、申し訳なさそうな視線を寄越してくる。

「先に行かせて本当に悪かった。あと、牧に教えてくれてありがとな」

 こいつは何度謝れば気が済むのか。
 つい不満をぶちまけそうになったが、辰馬の手前もあり生返事で踵を返した。




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