雨 藍


三、


 江戸より早く梅雨入りした長崎では紫陽花が全盛期を迎え、貿易国らしい雑然とした町並みに淡い彩りを与えていた。
 毎年帰省する月を決めているわけではないが、ここ数年は夏の終わりか冬の中頃が多い。なるべく遠征の少ない時期に、と思うと大体その時期になってしまうのだ。
 夏の終わりに帰れば「祭りに合わせて帰ってこいよ」と言われ、冬の中頃に帰れば「もう少し忙しくなる前に帰ってこいよ」と言われる。夏は江戸の祭りの警邏が、秋は討伐が多いのだと説明すると、誰もが「本当に隠密衆やってるんだな」と口を揃えて驚く。


 船から降りて桟橋を渡ると、貿易船に荷積みをしていた男達が手を振って迎えてくれた。
 ひとりで帰省してもすぐには気づいてもらえないが、甲斐は目立つ容姿のせいかすぐ麻績柴の息子だと分かるらしい。美人で評判の実姉に瓜二つというのもあるのだろう。
 雨が止んだばかりのようで、積荷の木箱はどれもしっとりと濡れていた。

「保智! おい、保智だろ」

 ふいに遠くから大声で名を呼ばれ、恥ずかしさを感じつつ周囲を見渡す。
 浜の上にいた浅黒い肌の男が両手を挙げて駆け降りてきた。
 ……誰だったか。

「ひっさしぶりだなあ! 覚えてねーかな、遠山よ。遠山 春樹」
「春樹!? ごめん、見違えてて誰か分からなかった」
「昔はモヤシだったからな。お前はぜんぜん変わってねーって誠二たちから聞いててさ、ほんと変わってなくてすぐ分かったよ。刀なんか持って、すっかり一丁前だなあ」

 同年の春樹とは子供の頃に剣道場で知り合い、十三で春樹の家が引っ越して以来会うことがなかった。誠二は共通の友人で毎年会っている。
 昨年地元に戻ってきたのだという春樹に、嫁を紹介したいから家に来いと誘われた。

「誠二と牧も近所だし、みんなで一杯やろうぜ」
「そうだな。もしよかったら甲斐も……あれ、ちょっと待っててくれ」

 春樹の肩越しにさっさと浜を上がっていく甲斐の姿が見え、しまったと後を追いかける。

「甲斐、悪かった。つい話し込んで」
「どうぞごゆっくり。先に行ってるヨ」

 なんとなく、怒っているのは分かった。

「さっきの奴覚えてないかな。俺が剣道習ってた時の友達で春樹っていうんだけど、今夜あいつの家で飲もうって話に」
「行ってくれば?」
「いや、だから、お前も一緒にどうかなと思って……」
「おれの知り合いじゃないし。余計な気遣いは結構」

 にべもなく断られる。
 子供の頃は同年代の友達がおらず、いつも自分とだけしか遊ばなかった。兄の船乗り仲間といる方がいいと突っぱねて友人を作ろうとしなかった甲斐も十数年経てば少しは変わったかと思えど、そのへんは相変わらずか。
 すれ違う人々に声をかけられ、「ただいま」と笑顔で答えながら行ってしまう。



「今の、チビだったあの甲斐か。まだお前にくっついてるんだな」

 浜に戻ると、春樹は眉をひそめて声の調子を落とした。

「というか俺が江戸まで追いかけたようなものかな。あいつも隠密衆なんだ」

 簡単に入隊の経緯を話すと大仰に溜息をつかれ、肩を叩かれる。
 甲斐も隠密衆にいるのは知っていたらしく、だが今もまだ馴れ合っているとは思わなかったと言われた。

「あのさあ保智、あいつとは程々にした方がいいんじゃないか? お前と話してる時にちらっと睨まれて正直首筋が寒かったよ。あんま言いたかねーけど、人殺しの目っていうか」

 人殺し───。
 間違ってはいないが、やはり世間体に隠密衆はそういう認識なのかと内心で苦笑する。

「あ、ごめんな。お前も隠密衆なのは分かってるよ、でも保智はそんな目してねーから」
「いや。俺も多分、江戸ではそうなんだと思う」

 江戸の町で人殺しと罵られた経験は、実は一度もない。
 それは自分だからではなく、氷鷺隊の功績によるところが大きいのだろう。
 緑と青の隊士は平民に優しくて悪さをしない、赤の隊士はやくざ者と付き合いがあり乱暴者が多い、という町の認識が目を曇らせているのだ。
 虎卍隊の隊士とて皆が皆そうではない。
 といって、彼らの良い面を理解してもらう術もない。
 皓司などは怖れられてこその職だから構わないと言うが、だから尚更に自分たちばかりが良い隊士であると思われるのは不本意で歯痒かった。

「甲斐は……俺なんかよりずっと仕事の本質を理解してるんだ。どこにいてもしっかり気構えを持ってるっていうか、だからその…冷酷に見えるかもしれないけど、何の罪もない人をいきなり斬ったりはしないよ」

 せめて地元の友人には誤解されたくなくてなんとか説明するも、上手くまとまらない。
 曖昧な色を浮かべた春樹の前で頭を掻き回していると、また上から大声で名を呼ばれた。

「やっちゃん! 去年帰ってこなかったから心配したんだぞ!」

 大柄の牧が走ると砂埃が舞って牛が走ってるみたいだ、と春樹が笑う。

「今そこでチビ助に会ってよ、お前がいるって聞いたから急いできたんだ」
「え、甲斐が言ったのか?」
「そうよ。どっかで見た顔だなーと思ってたらもろガンつけられたけど、あっちは俺のこと覚えてたみたいでよ。名乗りもしねえで『ヤスなら春樹と浜で話してる』って言うだけ言ってどっか行っちまったぞ」

 あとで甲斐だと思い出した牧は、三つほど年長だからか春樹や誠二ほど“チビ助”を嫌っていなかった。
 遊ぶ時はチビ助を呼んでやれよといつも言ってくれていたのだが、肝心の甲斐が嫌々の一点張りで最後まで馴染もうとしなかったのだ。

 それなのに牧を友人だと覚えていて、無視もできただろうにそんな風に教えてくれた。
 春樹のことも、言わなくても覚えていたのだろう。
 なかなか故郷へ帰ろうとせず昔の知り合いなんてとっくに忘れてしまったかと思ったが、ひょんな事で自分など到底勝てない器用さを見せつけられ、悔しいような嬉しいような。

「あいつデカくなりやがったな。やっちゃん越された?」
「少し勝った」

 身長だけは勝ったのだと負け惜しみのように呟き、港の潮風を吸い込んだ。




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