秋 雨


四、

「……松重忠勝にこんな用心棒が付いてるなんて噂は知らなかったナ」

 甲斐は口元を覆っていた布を外し、肩を竦めた。
 眼光だけが異様に光る男は、刀も抜かずに笑っている。猛獣のような目だと思った。

「半年で旗本二人が殺され、御所が黙って見過ごすとでも思っていたか、小僧」
「逃げ切れる自信はあったんデスがね。あなたが出てこなければ」

 どこの用心棒かは知らないが、そこらのごろつきとは完全に違う。今まで暗殺してきた人間にも稀に用心棒が付いていたが、腕の程は甲斐の方が格段に上手だった。剣豪を名乗る用心棒と標的をまとめて始末することくらい容易かったものだ。
 だが、この男は明らかにどの用心棒とも違った。
 子供でも分かるほど佇まいに無駄がない。

「備中、美作、因幡、丹波。これだけで一年半の間に三十七人の辻斬りがあったとの情報が入っている。うち五人は旗本や御家人、一流の名門道場師範。言わずとも身に覚えがあろうな」

 男は鼻で笑い、鋭い眼光で甲斐を見つめた。
 松重何某はとうにどこかへ隠れ、軒先の連なる暗い通りには二人の姿しかない。

「それがどうやら背格好からして華奢な男だという。斬り口は見事、無駄に殺傷の跡がないことからただの辻斬りではないらしい。なるほど、ならばそいつがどれほどの手並みか、この俺が自ら出向いてやろうと思った次第だ」

 そう言った男の言葉に、幕府の影がちらついてにいるように思えてならなかった。たしかに旗本が消されるという事は幕府が脅かされているも同然だ。そろそろ幕府の息のかかった用心棒が出てきてもおかしくはない。

「……隠密、ってとこデスか」

 その名を口にしてから、十中八九は当たりだろうと思った。
 男は鍔元を親指で押し上げ、刀を抜き放つ。

「左様。徳川隠密衆筆頭、葛西浄正(きよまさ)。その無謀に免じて俺が相手になろうぞ」

 ぞっと肌が粟立った。濡れそぼった体の寒さではない。
 甲斐は震えている自分の手元を押さえ込み、闇に光る浄正の切っ先を睨みつけた。

「隠密の御頭が自らお出ましとは恐れ入りますネ」

 軽口を叩いていられるのもこれが最後だと腹を括り、刀を構えて対峙した。


 先に動いたのは浄正だった。
 スッと音もなく一歩退いたかと思うと、突然真横から白刃が光る。声を上げる暇もなく刀で弾き、黒い影に向けて一閃した。だがそこには妖しのように影しかおらず、雨を斬っただけだった。
 後ろかと思った時には遅く、背中を強かに蹴られて空家の戸にぶつかる。すぐに身を捻って躱すと、一寸の遅れもなく戸に刀が突き刺さった。脇腹を掠め取られ、血が滲む。
 格段に動きが違う。
 何をしていたらここまで隙のない動きができるのか、今の甲斐にはそこまで考えている余裕は与えられなかった。背を狙って突き立てようとしたが、浄正は刀を背に回して甲斐の刀の切っ先を防ぐ。
 あたかも計ったように刃の中心に切っ先が当たり、甲斐はその巧妙な技に一瞬呆然として動きを止めた。幼稚な例えをすれば、まるで背にも目があるかのごとき正確さだった。わずか一寸でもずれていたら、浄正の背には今頃甲斐の刀が突き刺さっていたのだ。
 咄嗟に刀を背に回したのではなかった。
 浄正は、刃で切っ先を防ぐ自信があったのだろう。

 その荒技に魅せられた一瞬の隙が、命取りだった。

「他愛もないな、小僧」

 浄正のせせら笑うような声に気づいた時、目の前に対峙した浄正の腕がゆらりと動き、嵐のような白刃が襲いかかってきた。
 刀を持ち上げる間もなく全身を切り裂かれ、ずしりと腹に重い衝撃がくる。

「……ッ!」

 軒先の戸に背をつけたまま、浄正の腕から伸びる刀が腹を貫いていた。その足が持ち上がって甲斐の腹を押さえつけると、一息に刀を抜かれる。
 全身を切り刻まれ、血に塗れた体には立ち尽くす気力もなく、膝から地に崩れ落ちた。口からどっと血が溢れる。体から流れ始めた血は雨に混じり、浄正の足元へと流れていった。
 血溜まりを踏みつけて近づいてくると、甲斐の傍らに落ちた刀を拾って鞘に収め、それごと腰から引き抜く。

「貴様のような命知らずな小僧に、南蛮の刀など無用の長物だ」

 聴覚もさだかでなくなってきた甲斐には、浄正の言っていることなど聞こえていなかった。取られた刀が目の前の敵に握られ、取り返そうと手を伸ばすが、腹の奥から溢れてきた血の塊を吐いて横たわる。

「これが欲しいか」
「…………」

 答えることすらもできない甲斐を見下ろし、浄正は自分の刀を鞘に納めて踵を返した。

「取り返したければ江戸に来い、小僧。その身が生きていればな」




 耳元で雨の弾く音が聞こえる。
 いや、聞こえてはいなかった。頬に跳ね返る滴で錯覚しているのだ。
 横たえた体をゆっくり仰向けると、目に溜まった血の向こうに見える空から赤い雨が降っていた。冷たくなっていく体に血の雨が静かに染み込み、やがて真っ黒い空に変わる。
 顔の前に黒い影が差しかかったことも、甲斐にはもう見えていなかった。






「また派手にやらかしましたね。あの御方は」

 傍らに立って傘を差し向けた男は懐に手を入れると白い布を出し、一目で深手と分かる腹の傷にそれを押し込む。意識のない体が僅かに痙攣した。
 瞼を軽く押さえて目を閉じさせ片腕で甲斐を肩に担ぐと、足元の血溜まりの中に小さな金具が落ちているのに気づく。
 男はそれを拾って自分の腰帯の間に入れ、裏の通りへと消えていった。




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