秋 雨
五、
紅葉を弄びながら、甲斐は正面に座っている浄正の脇に置かれた刀を見ていた。
「秋雨の日に京都遠征だなんて、隠密衆に入隊してから今回が初めてでしてネ」
浄正は書物の一冊を捲りながらふと笑う。
「それで思い出したわけか。つくづく運のない男だな」
「運がなくなったのはあなたに会ってからですヨ」
甲斐はそう言って紅葉を窓の外に投げ捨てる。
まったく皮肉なものを持ってきてよこしたものだと毒づいた。
浄正に半殺しにされた翌日、気づくと甲斐はそこから一条先の家に寝ていた。
仙人のような風体をした医者は相当老いているようだったが、薬を煎じている手つきなどはまだ現役らしく、ほれとぶっきらぼうに口に流し込んできた薬草は苦すぎて効き目があったものだ。
どうしたのだとは一言も聞かれなかった。誰が運んできたとも言わない。
お前さんのものだろう、と小さな耳飾を差し出した以外は、医者は何も話さなかった。
起きようとするとこっぴどく叱られ、助手だという孫娘に始終見張られていた。その娘に隠密衆を知っているかと尋ねると、今朝まで隠密衆の侍が一人いたという。黒い服の目つきの鋭い男だろうと訊いたが、娘が首をかしげて返した言葉は虚を突かれたものだった。
「紺色の袴を履いた美男でしたよ」
美男かどうかは知らないが、浄正は袴ではなかった。本当に隠密衆の者だったのかと再度訊くと、そうだという。名前は知らないが祖父がそうだと言ったのだ、と。それから娘は、思い出したように懐から折りたたまれた半紙を取り出し、甲斐に差し出した。
「明け方近くに来た女の人が、これをあなたにって」
手紙から微かに白粉の匂いがした。娘が気を利かせて席を外し、甲斐は半紙を広げる。
八雲からだった。
そこには、甲斐に当てた謝罪が書かれていた。
京都で旗本が相次いで殺された折、隠密の者が町中を調べ回っていたのだという。『桔梗』も取調べにあったが、八雲はまさか自分を買ってくれている少年が御用者だとは露知らず、その時は知らないと答えた。だが先月、甲斐が『桔梗』を訪れた後に隠密の一人が再び八雲の元に訪れ、あの男が旗本殺しだと知らされた。
『桔梗』は祇園ではない。幕府が認めていない違法の遊郭だということを盾に取られ、協力すれば『桔梗』の経営は幕府に黙認させると脅されたのだという。
違法経営が知られれば刑は免れなかった。八雲はそれでもいいと思ったが、『桔梗』にはまだ若い遊女も大勢残され、彼女達が打ち首にさらされるのかと思うと自分だけが首を横に振るわけにはいかず、隠密衆に協力してしまったのだ。
昨晩、甲斐が『桔梗』を出たら窓を半分開けて合図しろと言われ、甲斐が開け放っていった窓を全部閉めてしまえばこんなことにはならなかった、愚かな自分には申し詫びる言葉もない、と滲んだ文字でしたためられている。
最後に、預かっていた耳飾は浅ましくも今生の思い出として頂きたいという一文で終わっていた。
「あの時は随分と姑息な手を回してくれましたネ」
「お前の腑抜けた暗殺業の方がよっぽど姑息な仕事だ。騙した女郎が自害しようとも、公儀の与り知る所ではない」
「惚れた女だったのに」
「嘘つけ」
浄正は書物を斗上に渡して別の一冊を開いた。甲斐は斗上の顔を見て、ふと気づく。
「……もしかして、おれを医者に運んでくれたの斗上サン?」
棚の蔵書を整理していた斗上は、ちらりと振り返って微笑した。
「今頃気づかれましたか」
「今頃すぎてお礼を言う気にもなりませんヨ」
「結構。私の意志で世話したわけでもありませんのでね。そうでしょう、先代」
斗上が目配せをすると、浄正は顔を上げてにやりと笑う。
刀を取り返す為に江戸に上京し、隠密衆の入隊試験を受けて以来、京都のことは一切触れなかった。自分の無様な記憶を曝け出すまいと、浄正のことはあえて意識しなかったのだ。
それがこんな場になって当時の背景を知ることになろうとは、本当に無様だと思った。
「半殺しにした張本人が医者に連れて行けと言ったわけデスか……」
呆れて浄正を見遣ると、当の本人は書物を投げ出して畳に寝転ぶ。斗上がそれをさっさと取って書棚に並べた。引退してから浄正は書物を読むようになったらしく、本棚はそこそこ埋まって見栄えだけはよかった。斗上が整理していなければ、この部屋は書物まみれになっていただろうと思う。
「現役中は言わなかったがな、お前の腕は見込みがあった。江戸に来なければただの小僧と思うところだったが、軟弱なわりに骨だけはあったらしいな」
「勧誘する気があったんなら半殺しにする前に言ってくれればいいのに」
「叩き潰しても這い上がってくる奴でなければいらん」
「あなたの指揮下でやってた四年間を棒に振ったような気分ですヨ。胃を潰してくれたおかげで、あれから飯もまともに食えなくなった」
甲斐は立ち上がって斗上にだけ挨拶し、浄正の部屋を辞退した。
門の前で視線を感じて振り返ると、いつの間にか浄正が立っていた。
「今のお前の腕なら、隊長格でも申し分なく務まるだろう。のし上がれない理由でもあるのか」
こんな話を振ってくるのは初めてだった。
浄正が今の甲斐に対して何を考えているのか、甲斐はあえて詮索せずに答える。
「正直に言うと、先代が現役なら隊長でもいいと思うんデスがね」
雨の中に佇む二人の刀は、今はただ腰に据えられていた。鍔音が鳴ることもない。
「今の隠密衆には、あなたの時代にあったような統一性に欠ける。そんな中で隊長なんかやった日には退屈しすぎて辞めるかも知れない。だから、しばらくは下で待ってるんデス。現御頭が先代のようにがつがつした精神に埋もれてくるまでは、隊長にはなりたくないワケでして」
浄正は柄の上に片手を乗せて嘆息した。
「相変わらず、生意気な小僧だな」
「小僧の時から先代の影響が強すぎただけですヨ。いい意味でも悪い意味でも」
また来るとも来いとも言わず、二人はそれから同時に背を向けて歩き出した。
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