秋 雨


三、

 灯篭に影を引かれないよう、『桔梗』を出るとすぐに裏へ回った。三軒先の薬屋の横から出て向かいの空家の裏へ身を滑らせると、甲斐は庇の下で息を潜める。
 奴は必ずここを通る、という確信があった。
 一月前から念入りに行動を調べ、今夜この先の料亭で人と会っているはずだ。
 旗本、松重忠勝。
 甲斐にとっては旗本だろうと農民だろうと、肩書きなどはどうでもいい相手だった。請け負った仕事さえ片付けば、幕府の人間だろうと知ったことではない。

 長崎の家を出て一年と半年ばかり。
 目的があったわけではなく、退屈しのぎに国中を回ってみるのもいいと軽はずみに飛び出してきたのだが、一握りの金は見る間に減っていき、宿どころかそのうち食うものも食えなくなるだろうと思った時、たまたま備中(現在の岡山県)の小さな料亭で暗殺の依頼を受けないかという話が転がってきたのだ。
 その料亭でちょっとした喧嘩沙汰が起こったところを、刀一振りで黙らせた腕を買われたのがきっかけだった。
 最初の仕事は成功すれば百文、失敗すれば一文。
 どこのガキとも知れぬ子供に頼むのだから、その程度は仕方ない。

 甲斐の父は長崎で舶来物の貿易を営んでいて、刀を教わった事はない。家族は他に母と兄姉が一人ずついるが、兄すらも刀を振るう所は一度も見た事がなかった。
 七歳の甲斐に刀を持てと言い出したのは四つ上の姉だ。
 町の子供達が竹刀で遊んでいる間、甲斐は舶来物のがらくたの中から一振りの刀を見つけ、姉の知人に刀の扱い方を教わったのだ。
 元より同年の子供達よりも頭の回る子供だったが、早くに刀を覚えたせいもあって暗殺の仕事は楽なものだった。人を斬ることこそ初めは畏怖したが、それは畏怖というよりも好奇心の方が近かった。
 実際に斬ってみると、こんなものかというほかに感慨はなく、割合に自分には暗殺業が向いているのかもしれないと思ったほどだ。

 それから泊まる宿はなるべく目立たないような陰湿な宿を選び、それらしい人物を見かけては暗殺の依頼を交渉してきた。目利きが確かなのか、交渉する人物には必ず殺したい人間がいて、中には大した下調べもいらずに片付けたのに一両もくれる者までいた。顔を見られるような失敗はせず、暗殺業をしながら関所という関所を難なく通って半年前に京都まで来たのだ。

 京都は格別に華やかで、その裏には数え上げたら限りがないほど憎悪がひしめいている。京都御所の御膝元もあってか、とりわけ大物の暗殺依頼が多かった。
 半年で片付けたのは二人。甲斐にとっては率の悪い方だったが、それでも一人あたり5両もの金を受け取ったのだから、相当な仕事ではあった。
 今回の仕事を片付けたらそろそろ京都を離れようと考えているが、最後に限って一番厄介な大物を引き受けてしまったのだ。
 だが、甲斐はまだ相手が厄介だとは知らない。
 京都に来てから片付けた二人と同じように念入りに下調べをしたのだから、あとは始末するだけだと思っていた。


 湿った髪から水滴が垂れてくる。
 八雲の肌のぬくもりはとうに消え失せ、移った白粉の香りもすっかり落ちていた。彼女が言っていない事とは何だったのか急に気になり出した時、先の料亭から男が三人出てくる。どれも松重何某ではなかった。とすると、まだ中にいるのだろうか。
 しばらく身を潜めていると、女と一緒に出てきた男がいた。
 それが松重忠勝だった。
 傘で顔は見えなかったが、松重は特徴のある歩き方をする。それで分かった。女がいるのは厄介だが、ならばまず女を始末してから松重を片付けるのが妥当だと考え、刀の柄に手をかけた。
 女に傘を差し向けながら、こちらに歩いてくる。
 何か囁き合っているようだが、どうせ他愛のない睦言だろう。
 甲斐は口元を黒い布で覆ってから、鍔音も立てずに刀を鞘から抜いた。

 自分と松重との距離は、わずか二間。
 松重の足取りは遅かったが、時々笑う声はいかにも下卑た音だった。

(呑気なものだネ、旗本のおじさんは)

 冷めた目で空家の影から窺っていると、すぐそこで女が足をもつれさせた。鼻緒が切れたらしい。手を貸そうとする松重をやんわりとした仕草で断り、女はしゃがみ込んで鼻緒を結び直す。
 今が好機だった。

 スッと物陰から飛び出ていき、女に傘を差したまま横を向いている松重の首を狙って刀を薙いだ。

「……!?」

 だが、首を落とす時の手ごたえの代わりに、気圧されるような重い手ごたえが返ってきた。

「な……」

 しゃがんでいた女が、気配もなく三尺ほどもある刀で防いだのだ。
 甲斐と松重の間はわずか四寸程度だった。
 女がなぜこんな長物を持っているのだ、という驚きよりも、横から片手で甲斐の刀を防いでいる力と身のこなしに驚き、甲斐は咄嗟にそこから飛び退く。

「人を斬るならば、まず急所は狙わぬことだ。小僧」

 松重が言ったのかと思ったが、その低い声は女から発せられたものだった。
 状況が読めぬまま、甲斐は即座に失敗したと思った。
 女は立ち上がって松重の前に立ちはだかり、夜目にも鮮やかな赤い着物を脱ぐ。その姿は、漆黒の布に包まれた男のものだった。旗本や武士が着るような服ではない。まるで忍びのような、無駄のない服を纏っていた。
 赤い下駄が横に転がって雨に晒されている。鼻緒を直していたのかと思ったそれは、脱ぐ為にしゃがみ込んでいたのだとようやく気づいた。

 松重が命を狙われていることを知っていたのか。たかが用心棒にしては異種の気配を感じ、甲斐は微動だにできないまま黒衣の男を見上げた。

「華奢な小僧だとは聞いていたが、まるで女のようだな」

 侮蔑するような声が腹の底から響く。どことなく漂ってくる絡みつくような気迫は、一介の用心棒などとは明らかに違った。
 雨が俄かに強くなり、甲斐を頭から叩き潰すかのように降り注ぐ。




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