秋 雨
ニ、
「そこから何か見えるんですか」
白粉の匂いに混じって、雨の匂いがした。嬌声が囁き合う郭の一部屋。二階の窓からは、いつしか降り始めた雨が音もなく降り注いでいた。
「雨がネ」
「雨なんて、先刻から降ってたじゃないですか」
「貴女を見てたから気づかなかった」
「口のうまい坊ちゃんだこと」
褥に寝転んでいる女は緋色の襦袢を背にかけたまま、物憂げに煙管の葉を詰め替える。甲斐が手土産に持ってきた舶来物の葉だった。
八雲とは五度目の交わりになる。
最初に出会ったのは半年前の春だった。表向きは料亭宿になっているが中は遊郭という、幕府の目を忍んだ穴場に興味を引かれただけのことだった。
八雲を初めて見た時、本当の料亭の女将のようだという印象を受けたのを覚えている。歳はそれなりで、あと一年もしたら遊女としては売れなくなるだろうと思った。年のいった遊女は芸妓になる者も多い。それでも利発そうな顔は艶よく、まだ子供だと言われて追い出されそうになったところを、逆に八雲に指名されたのだ。
常連として扱われるようになるまでは、甲斐の歳では最初が肝心だった。その時は運よく八雲にお膳立てしてもらった形になる。
京女は床上手というが、『桔梗』に六年もいる八雲は甲斐の知るかぎりではそれほど床上手ではなかった。女は三度抱けば技量くらい分かってしまう。少なくとも、十六歳の甲斐はそれだけの経験をした。指を折って数えれば何往復もする数の女を抱いてきたが、八雲には技量ではない別の何かを肌から感じていた。
恋慕かもしれないし、母性かもしれない。あるいは、どちらでもないかもしれない。それが何か分かるまでは、幾度でも通ってみる。そう思って四度目まではここへ来た。
だが、今日だけは八雲に会いに来たのではない。
開け放たれた窓へ煙が霧のように流れ、鼻腔を掠めて雨の夜に消えていった。向かいには料亭と称した遊郭や籠屋、薬屋などが軒並みに連なっている。一見して何の店だか分からないような所もあった。
薄暗い灯篭に照らされた通りを歩く人影はもう少ない。
子の刻まで、あと半刻だった。
「その煙管の葉、気に入ったらまた持ってくるヨ」
「また来て下さるなら。麻績柴さんの家はお武家様?」
「ただの貿易商ですヨ。しばらく家に帰らないから、今度はずっと先になる」
ずっと先、と聞いて八雲は無言のまま煙管をふかした。
散らかした着物を拾って着ていると、八雲が突然くすくすと笑い出す。
「今わたしね、麻績柴さんには緋色の襦袢が似合いそうだなんて考えてしまいましたわ」
「襦袢……?」
八雲の背にある襦袢に目を遣ると、自分でもその色の襦袢を着ている女が好きだと思い出した。着たばかりの上着を脱ぎ、襦袢を手に取る。八雲の白い肢体が褥に晒された。そんなことはお構いなしに襦袢に袖を通して、甲斐は丈の足りなさに笑う。
「ちょっと格好悪いネェ、この丈」
「肌が白いからやっぱり似合う。女の子でしたらよかったのにねえ」
「また八雲サンの口癖が始まった。おれは生涯男で充分」
「あと幾年もしたら、目を見張るほどの美男になりますよ」
「じゃあ金持ちになったら身受けしてイイ?」
八雲が目を見開いた。その時の表情は、嬉しいというよりは何かに傷ついたようでもあった。甲斐はまずいことを言ったのかもしれないと思い、襦袢を脱いで八雲の背にそっと掛ける。
「冗談ですヨ。ひどいことを言ったのなら謝る。今のは忘れて下さい」
服を身につけながら、八雲には身受け先が決まっているのかも知れないと思った。六年も遊女をしているのだ、これだけの器量よしならまめに通ってくれる男もいるに違いない。甲斐は軽率だった発言に苦笑して、ここには自分の知らない大人の世界があるのだと観念した。
部屋の隅に立てかけていた刀を帯に差すと、八雲は物憂げな顔でちらりと甲斐を見る。
「いつも持ってらしてるそれ、綺麗な刀ですね」
一目で南蛮物だと分かる直刀は、金色の唐草の彫り物が施されている鞘に収められていた。
「中国の刀でネ。御上に献上しても直刀は値が安いらしいから」
江戸時代になると刀は反りのあるものが一般的になった。直刀のようにまっすぐな刀は斬るのに不向きなのだ。甲斐は最初に持った刀がこの直刀だったので、反りのあるものより慣れていただけのことだ。
「それじゃ、また来るヨ」
「麻績柴さん」
部屋を出て行こうとした甲斐を、八雲の切迫した声が引きとめた。
「わたし、麻績柴さんに言ってない事があるんです」
甲斐は小首をかしげて振り返ると、一旦襖を閉じて八雲のそばに膝をつく。
「今聞いたらいけないようなことデショ。ならこうしようか」
甲斐は赤と紫の宝石のついた耳飾をひとつ外し、八雲の手に乗せた。
「今度これを取りに来るから、その時に話して」
八雲は眉を寄せて甲斐を見上げ、俯く。
「……なぜ今は駄目だと?」
「勘がいいから、カナ。そういう勘ってよく当たるんだ」
甲斐は左耳に残された耳飾に触れた。しゃらん、と石の擦り合う音が聞こえる。
八雲の手の中にある同じものは、ただ静かに握られているだけだった。
一人になった室内で耳飾を握り締め、八雲は声を押し殺して泣いた。
二度と甲斐はここには来ない。来れるはずがない。
襦袢を握り締め、雨の空を見上げる。
傘を差して行っただろうかとこの期に及んで心配してしまう気持ちを堪え、そっと半分だけ窓を閉めた。
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