秋 雨


一、

 十月下旬の雨は、甲斐に時々少年期を思い出させることが多かった。

「やだネェ、また雨か」

 自室の窓に腰掛けて独り呟くと、仕切られた箪笥の向こうから退屈そうに欠伸が返ってくる。

「お前、この時期になると毎年同じこと言ってるぜ。聞き飽きた」
「誰も宏幸になんて言ってないヨ」
「同室なんだから聞こえんだよ。貴重な睡眠を妨害すんじゃねぇ」

 明日から二人の隊は京都へ遠征に出なければならなかった。
 雨音を聞きながら黙っていると、寝返りを打つ音がしてぼそりと声がする。

「明日の京都は多分晴れだ。紅葉狩りでもしながら気楽に行こうぜ」

 宏幸なりに甲斐を元気付けた一言だったが、別に落ち込んでいるわけではない甲斐は笑って窓の障子を閉めた。

「これで明日も雨カナ。似合わない台詞もほどほどにネ」


 甲斐が部屋を出て行くのを聞き届けて、宏幸はうつ伏せのまま舌打ちする。

「……人がせっかく気遣ってやりゃ、あんにゃろう……」




 ぶらぶらと歩いていたつもりが、いつの間にか上野に足を運んでいた。湿った紅葉を踏み分け、不忍池の先にある長者屋敷を訪れる。門衛に身分を明かして通してもらい、屋敷の奥へ向かうところで一人の男に呼び止められた。

「甲斐。どうしました」

 落ち着き払った僧侶のような声に振り返ると、涼やかな顔と目が合った。涼やかというよりは無機質で、何を考えているか分からない能面。昔からそうだと甲斐は胸中でひそかに思う。

「お久しぶり、斗上(とがみ)サン」
「四年振りですね。先代なら道場ですよ」

 こちらの用事などお見通しと言わんばかりに畳みかけてくる。
 斗上皓司は四年前まで隠密だった男だ。かつては甲斐の所属している虎卍隊の名はまだなく、この皓司が率いる紅蓮隊というのが三人衆の一つにあった。隊の名前は隊長が変わるごとに変更するので、ひとつの隊名が何十年も残ることはない。一時は甲斐も紅蓮隊の隊士であり、皓司と共に戦場を駆けた間柄だった。
 甲斐以上に食えない男と言われていた皓司は、どんな時でも自分を崩したことがない。人生で何が楽しみなのだろうと、昔はよく思ったものだ。仕事一筋なのかと思えば一方で誰よりも冷めている。気軽に声をかければ気軽に返事をしてくれるが、いつまで経っても彼の思考は読めなかった。

 ぼうっとした性格を付け足せば実家にいる兄に似ているかもしれないと思っていると、皓司は甲斐の腰物に目を遣って唐突に言った。

「一手、手合わせでもなさってきたらいかがです」
「相変わらず物言いのいやらしい人だネェ」
「そう聞こえたのなら失礼。半刻ほどで戻りますので奥の間へどうぞ」

 皓司は濃紺の着流しを優雅に翻して奥の間へ案内した。現在は先代御頭の側近をやっているが、甲斐や当の先代にしてみれば茶飲み相手だろうと思う。皓司もそれを承知して側に仕えているのだから側近とは名ばかりだ。浄次の父である先代にとって、唯一腹を割って付き合える人間がこの男という理由もあったが。

「火急の御用でいらしたんですか」
「そう見える?」

 皓司は肩越しにちらりと振り返って微笑した。

「いいえ。こんな秋の日ですから、一昔の京でも思い出したんでしょう」
「……本当にいやらしい人だネ」
「近日中に京都へ?」
「明日から遠征でネ」

 それはそれは、と皓司は含み笑いをしながら何食わぬ顔で先代の部屋を開けた。甲斐はしかめ面で足を止める。

「先代の生活臭が染み付いた部屋で茶なんか出されても、胃が痛くなるヨ」
「医学も進歩している事ですし、もう一度翁に見てもらってはどうですか」
「手術だろうと何だろうと腹をこじ開けられるのはもう御免だネ」

 甲斐はそう言って窓を開け、目の先に見える道場を眺めた。

 雨が庭の葉を打つ音の中に、時折ダンッと足を踏む音がする。竹刀ではなく真剣を振っているのだ。

「いい加減に鍛錬なんかやめたらいいのにネェ。何を極めようとしてるんだか」
「甲斐も先代の年になったら分かりますよ」

 皓司が湯呑を持ってくると、甲斐はそれを受け取って苦笑した。

「四十八歳まで命があったら今の言葉を思い出しますヨ」

 苦味のある茶を啜って、また道場へ目を向ける。音はしなくなっていた。



 ややあって刀を持った男が出てくる。その姿に老いた影は微塵もなかった。四年前と何ひとつ、否、京都で出会った九年前の姿から何一つ変わっていない。
 曇天を見上げ、道場の前で佇む男はゆっくりとこちらを向いた。甲斐の姿を目に留めると、男の口元が軽く持ち上がり、物言いたげな視線を寄越す。すっと視線が逸らされたかと思うと男は早々に屋敷へ消え、甲斐は今頃になって会いたくないと後悔した。

 男は濡れていない紅葉を一枚手にして戻ってきた。ここへ来る前に湯を使ってきたのだろう、袴姿だった先刻とは違い、黒衣の着流しでくつろいでいる。

「久しぶりだな。俺の顔でも見たくなったか」
「とんでもナイ。上野に来たついでに寄っただけですヨ。少しは老けたかと期待してましたが」

 甲斐は軽口を叩いて肩を竦め、投げ渡された紅葉をくるくると回す。まだ色付いていない紅葉も咲いているが、あえて赤く染まった紅葉を拾ってきた男に、甲斐はそれを当て付けだろうと直感した。

「紅葉ならもっと色が付く前のが好きなんですけどネ」
「お前は赤い方が好きかと思ったんでな。昔から、血にまみれるのが似合う」

 男は笑いながら皮肉を込めた目で一瞥をよこし、茶を啜る。
 この目を見るたび、今でも秋雨の京都が鮮明に脳裏に焼きついているのを苦々しく思った。




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