一.


「旦那。高井の旦那ったら」
「あー?」
「あーじゃないよ。朝飯どうすんだって聞いてんの」

 もそもそと布団から身を起こした宏幸は、鏡の前で適当に髪を結い上げている女の背を眺めながら欠伸をした。

「あー、食ってく」
「そうかい。ちょいと真純、旦那に飯持ってきておやりな」

 部屋の外にいた禿が鈴のような声で返事をし、ぱたぱたと階段を下りていく。
 以前の禿は病で死んだらしく、ひと月前から自分が世話をしているんだと言っていた。まだあどけなさの残る少女で、どんな理由で女郎屋に売られたにせよこの先は不幸しかない。

 文字通り精根尽き果て、布団から出る気力がなくてまた寝転がる。と、髪を結い終わった千草が布団の上からどかりと覆いかぶさってきた。

「あたしの匂いが名残惜しいかい?」
「布団が恋しいんだっつの。つーか重てえよ」
「なぁに言ってんだい。重い尻を担いでしっぽり気持ち良くなってたヤツが」
「…………」

 蓮っ葉な口に反して優しい手つきで頭を撫でられると敵わない。
 経験ゆえか男の扱いはこなれたもので、こんな風に所帯じみた態度を取ることもあれば手弱女を演じることもあり、宏幸相手にはもちろん前者なのだが所帯というよりは姉のように振舞う。
 実際ひとつ年上なのだから当然としても、初めて会った時から客扱いではなかった。まるで弟のような、犬のような。
 千草に限らず馴染みの遊女にはそんな扱いしかされない。
 そしてそんな扱いしかしてくれない女のところへ通ってしまう自分がとことん恨めしい。


「高井様、お食事をお持ちいたしま…し……」

 膳を持って入ってくるなり真純の顔がみるみるうちに紅潮し、手の中の器がカタカタとぶつかり合う。千草が悪いのであって自分は悪くない。断じて悪くない。

「ち、ち、千草姉様……っ!」
「あらゴメンねぇ。いいんだよ、お入り」

 布団を剥いで宏幸の股間に顔を埋めていた千草があっけらかんと笑った。
 完全に真下へ視線を落としてこちらを見ないように歩いてくる禿も気の毒だが、半勃ちのまま放置された宏幸も泣きたい心境だ。飯が先か、抜くのが先か。

「ついでだから見とくかい、真純? アンタにはちっとばかし早いけど悪かァないよ」
「い、嫌です……そんな……」
「そんな粗チン?」
「粗チン言うな! 何なんだよおめーは……。わりーな真純、メシ食うからよ」

 俯いたまま蚊の鳴くような声で返事をすると、首まで真っ赤に染まった少女は早足に部屋を出て行った。心なしか襖の閉め方が乱暴だった気がする。
 朝から姉貴分と客の情事を見せられそうになるとは、この先どうなるやら。

「お千と違ってまだウブなんだろ。あんまし苛めんじゃねえ」
「あたしなりの愛情さね」

 丸出しの乳房を今さら隠し、「旦那のことは苛めて楽しんでるけど」と白状された。言われなくても半勃ちの下半身を無視してさっさと帯を締めている千草を見れば分かる。
 どうにも収まらない一物に耐えかね、厠へ行ってくると告げるといきなり帯で首を絞められた。

「郭に来といて厠で抜く? 何様だい」
「す……すんませ……ッ!!」
「ほらそこに転がんな。金はいらないよ」

 毎度のこと、情けない。




「情けない」

 郷の葉(さとのは)が台所から拾ってきた話を聞き、開口一番に溜息が出た。
 宏幸と同じ女郎屋にいたのは偶然だが、女郎の手玉に取られている相棒の話が面白おかしく広まっていることが情けないのだ。安い宿に秘密主義などあるはずもないのは百も承知だが。
 甲斐は身支度を整えて膳の前に腰を下ろした。白い手が杯を差し出してくる。

「でも高井様が帰った後はお千姉さんの機嫌がいいんだそうですよ」
「帰ってくれてせいせいしてるからじゃナイの」
「次はいつ来るのかって寂しそうにするみたいですから、違いますでしょう」

 だから何だというのか。返事をしないで湯葉に箸をつけると、郷の葉はもの言いたげな目をちらりと寄越してすぐに伏せた。
 冷たい、と言いたいのだろう。昨夜の態度とはまるで違うと。
 十六の新米で慣れていないと聞き、味見に買ったのだが外れたか。味の方はまあまあ良かったが会話が下手で面白くない。口下手な幼馴染の方がまだマシだ。

「郷の葉はここで何がしたいの」
「はい……?」

 徳利を握り締めていては冷酒がぬる燗になる。そんな事すら気が利かないのかと呆れた。

「売られた理由はどうあれ、郭で生きていくなら目標を持たなきゃ」
「……一人前の、遊女になりたいと思っております」
「具体的には? お千さんみたいになりたいの?」
「えっと、まだ分からないんですけど……お客様に喜んでいただけるような……」
「いい答えだ。で、おれが喜んでると思う?」

 はっと顔を上げた少女の目から大粒の涙がぽろりと零れる。苛めすぎた。

「ごめんネ。可愛い子はつい苛めたくなる性分で」

 小さな肩を抱き寄せて頭を撫でてやると、郷の葉は堰を切ったように泣き出した。
 ───情けないのは自分もか。



 郭の暖簾をくぐったところで千草に引き止められ、往来で容赦なく叱られた。二度と来るなと言われたが二度と来るつもりもなく、適当にあしらっていると道の先で悲鳴が上がる。

「なんだい、また喧嘩かね」
「らしいネ。ヒロユキはもう帰ったの?」
「郷の葉みたいに泣かされんのは御免だから追い出したさ」

 なるほど。宏幸を泣かせないうちに解放してくれたらしい。
 喧嘩の始末を理由に千草と別れ、見えなくなったところで道を回って帰ることにした。




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