ゆ き
十六、
◆圭祐──1700年・季春ノ参◆
階段を上がり、南の奥の部屋へ歩いた。
襖を叩こうとすると、上杉が部屋を出るところだったらしく、すっと戸が開く。
「なにかご用事で?」
「うん、ちょっと。麻績柴さんいる?」
「寝てますぜ。朝飯まで遊郭で食ってくりゃ眠くもなりましょうや」
「そうだったんだ。どうりで朝いないと思ってた」
笑って部屋を入れ違いに入ると、目の前に箪笥があって少し驚いた。
ここでも部屋を仕切っているらしい。
右側だと言われたので入ってみると、部屋を二等分にしているわりには広く見える。物があまり置いてないのだ。中央に布団が敷いてあり、枕元に刀が立てかかっていた。
用事だけ済ませて帰ろうとすると、眠そうな顔がこちらを見ているのに気付く。
「あ、起こしちゃった? ごめんなさい」
「おや、ずいぶん殊勝な物言いだネェ。殿下に更正させられた?」
「殿下?」
「寒河江隊長のあだ名だヨ。お釈迦でもいいけど。で、どうしたの」
彼はむくりと体を起こして、ひとつ欠伸をした。
裸の上半身から麝香のような白粉の香りが匂ってくる。昨日まではこの匂いが嫌いだったのに、今はくすぐったいような恥ずかしいような感じだ。
「これ、薬屋さんからもらってきたんだ。いい薬草使ってるから効くんじゃないかと思って」
「風邪引いて寝てるわけじゃないんだけどネ」
「胃薬だよ。刀の傷で怪我してるって言ったら、それに合わせて調合してくれたの」
花見の帰りに買っておいた薬を差し出すと、意外そうな顔で見つめてくる。
鉢巻をしていない姿はあまり見ないので、顔が違って見えた。
「それが本来の性格?」
「うん。今までのは、ぜんぶ嘘」
「可愛いネェ。ケースケって呼んであげるヨ、ご褒美に」
「じゃあ僕も甲斐くんて呼んでいい?」
「どうぞ。朝騒がしかったのはケースケのこれのせいか」
「なんだかね。みんなころっと態度が変わっちゃって、僕の方が戸惑った」
甲斐は上半身を起こしたまま、長い腕をすっと顔に伸ばしてきた。
指の背で頬から首を掠めるように撫でられる。
「またやろうねって、いつも言ってくれたよネ」
「え……うーんと、それは昨日までの僕だから……」
「昨日も今日もケースケ本人でショ」
「もう、やめたんだ。お金は取ってあるからちゃんと返すよ」
そう言うといきなり大笑いされて何がなんだか分からなくなる。
この男がこういう笑い方をするのは、身体を重ねている時には一度も見なかった。自分が欺いていたのを知っていたから、彼も自分の正直な部分を隠していたのだろう。
「冗談だヨ。それに金なんか返されたら、おれがした行為まで返されなきゃならなくなる」
「そういうことじゃなくてね……」
「金銭の揉め事は嫌いだからいいヨ」
「……それであの時、自分の隊士を斬ったの?」
あの時、というのを忘れていたらしく、甲斐は記憶を探るように目を上に向けた。
「あの時か。さて、どうしてだろうネェ。弾みでばっさりやっちゃったけど」
「弾みとか、損得もなしに斬るような人じゃないって上杉さんが言ってたよ」
「損がなければネ。得がなくても斬る必要のある人間は斬る」
「つまり、教えてくれないんだ?」
「教えて欲しかったら昼まで語ってあげるヨ。ここでネ」
冗談だと分かっていたので、笑って部屋を後にした。
外に出ると、桜の花びらが風に舞っていた。
カラン、コロン、と下駄の音が聞こえる。
「急いで仕立てた着物だったけど、よく似合うねえ」
振り返ると隊長が歩いてきた。
春先の空のような、暖かい目をしている。
自分はずっとこの目から逸らしていたのだ。
見つめると、何もかも忘れて安心してしまいそうな眼差しだから。
この目を信じてよかったと、心底から思った。
「昨日はありがとうございます。殿下がいなかったら、僕はずっとあのままでした」
「殿下って誰に聞いたんだい? 最近ついたあだ名なんだよ」
「甲斐くんに。さっき薬を渡しに行ったら教えてくれたんです」
隊長がふわりと笑って頭に手を載せてくる。
大きくて、温かくて、まるでお父さんのような手だった。
六歳しか違わないけれど、この人は大人びて見える。
「すっかりみんなと打ち解けられたみたいだね。安心したよ」
「いい“家族”ですね」
「うちの班長はしょっちゅう替わっちゃうから圭祐と保智には期待してるよ。重荷かな?」
「いいえ。僕を必要として下さるなら、それに応えるだけの力を身に付けます」
桜を見上げると、雪のように散る花びらが衛明館に降り注いでいた。
雪は儚く、一瞬で消える。
泡沫の花とはその言葉通りだった。
儚く消える花よりも、立ち続ける木こそが自分であるように。
桜の木に手を添え、己が心にしっかりと刻み込んだ。
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