()斬雨(きりさめ)の地に


十、

 鳩尾の一撃が効きすぎて立つ事も侭ならない綺堂は、唸り声を上げて皓司の足首へ脇差を叩きつけた。しかし呆気なく手首を蹴られ、その靴底に頭を押さえられる。
 口の中に入った土を唾で吐き出し、横目に皓司を睨み上げた。

「……たちの悪い曲者になりやがって」
「安西さんにも同じ事を言われました」

 安西と聞いて、口から歯軋りが鳴る。離れた所に転がっている相方の影は、闇と化して動かなかった。何の理由あって殺されたのか、彼は知ったのだろうか。それも知らずに死んだのなら、自分は黙って殺されてやるわけにはいかない。

「冥途の土産に、相棒を殺した理由くらい聞かせて欲しいですな」
「土産とは面白い事をおっしゃいますね。必要ないでしょう」

 綺堂は無駄な言葉を吼えそうになった憤懣を嚥下し、息を吐く。相手が冷静ならこちらも冷静にならねばと自制するのに、長い溜息が必要だった。
 ふいに押さえつけられていた頭が軽くなり、胸倉を掴まれて上体が浮き上がる。

「くたばるのは五十年早いですよ」

 鼻先が触れるほどに迫った皓司の唇が、見惚れるような半月を描いた。

「先輩方には、使い物にならなくなるまでお付合い頂こうと思っておりますので」



 小悪魔のような微笑を浮かべた皓司を見て、綺堂をはじめ隊士達の口がぽかんと開く。
 その台詞をどう解釈すればいいのか分からないといった表情が、途端に傍から上がった笑い声で引き攣り始めた。

「畜生。冗談厳しいですよ、隊長」

 苦笑混じりに半身を起こした安西が、膝を叩いて笑い出す。

「あっら……安西ちゃん?」
「やっほう相棒。俺の為にマジギレするとは思わなかった」

 首を巡らせて見上げると、何食わぬ顔で刀を収めた皓司と目が合った。

「ほんの悪戯です。失礼致しました」
「いたずら……!?」

 安西もグルかと聞けば、彼も綺堂が出てくる直前までは本気だと思っていたらしい。押さえている脇腹を指で示し、それが左脇───三ヶ月前の安西の『悪戯』によって皓司が怪我をしたのと同じ場所である事に気付くと、綺堂と隊士達は言葉もなく唖然となった。
 これは安西への復讐劇だったのか、騙した紅蓮隊への仕返しだったのか。
 無論、答えは両方に違いない。

「女郎蜘蛛の話に納得して、てっきり首を刎ねられると思ってましたよ」

 皓司が差し出した手拭いを受け取りながら、安西は苦笑いを浮かべた。

「そこまで非道ではありませんよ。恩は恩、徒は徒で返します」
「いやはや、お見逸れしました。とんでもなく律儀な執念深さだ」
「有り難うございます。これでお相子ですね」
「ていうか、前の切腹沙汰は御頭のせいじゃないですか」
「大木は根元を断てと言うでしょう。枝葉の事など気にしません」

 前回の悪戯を企てたのが安西なら、首謀者本人に仕返しをするのが正当。
 それでは殴られ蹴られて頭まで踏まれた奴隷扱いの自分は何だったのかと、綺堂が割り込んだ。すると皓司は「ニゲラのこぼれ種ですよ」と言い、綺堂の顔を蒼白にさせる。

「……毒に当たった、と?」
「私をニゲラに喩えて下さったのは綺堂さんですから」

 その花らしく振舞ってみたのだと、天使のように無邪気な顔で悪魔が笑った。
 見た目は美しくとも、花後にできる黒い種には毒がある。これ見よがしに『戸惑いの花』を贈って密かに笑った綺堂は、ささやかにして同等の屈辱で返り討ちに遭ったのだ。
 それだけ彼の受けた屈辱が大きかったという事。

「とうとう食わせ者になりましたな。花屋さん」
「態度の大きな人間になれとご教訓賜りましたので、その様に」

 いけしゃあしゃあと述べた皓司の前で、安西が額を押さえる。

「態度じゃなくて器ですよ、う ・ つ ・ わ!」
「そうでしたか。勘違いしておりました」
「確信犯だ、絶対……」

 安西に止血処置を施した皓司が、抱っこがいいかおんぶがいいかと同じ事を彼に聞いているのを見て、すぐそばまで来ていた浄正は腹を抱えて大笑した。
 その横で顔を見合わせた司と高村が揃って溜息をつき、責任を取れと言われた通り綺堂と安西をそれぞれの馬に乗せて、江戸への帰路に着く。






「皓司。朝飯食ったらゴロ寝しに『川蝉』へ行くか」

 部屋の襖を開けると、すっぽりと布団を被っている皓司の頭が見えた。浄正は障子を全開にして空気を入れ替え、膨らんだ掛け布団を見下ろす。

「こら小僧、朝だぞ。二日酔いか?」

 昨日の遠征で、隊長から見事に嵌め返された紅蓮隊が宴をしようと言い出したのが始まりで、皓司は初めて酒を飲んだ。というより飲まされていた。浄正の知る限りでは盃に五杯くらいだったが、下座のお祭り騒ぎに引きずり込まれてもう三杯は飲んでいたかもしれない。
 酒気に慣れていない彼の身体は、酔いが回るのも早ければ潰れるのも早かった。
 傍目には顔色も変わらず酔っている風に見えなかったが、突然ぱたりと横になって眠り出した皓司の姿に、一座が笑いで盛り上がったのは言うまでも無い事。

 腕を磨き、組織を知り、実家に訪れる弟子や客相手のような上辺付き合いではない人と人との在り方を、彼は時短くして学んだはずだ。次は酒を覚える事が目先の課題になる。
 一つずつ殻を破り、大人に化けていく───それを成長と呼ぶのだろう。


 もう一度呼んでも返事がないので、掛け布団を捲り上げた。

「いつまで寝て……」

 うんと唸った皓司の身体が、猫のように丸まって縮む。
 その両側に、子猫に引っかかれた親猫(・・・・・・・・・・・)が二匹、寄り添って眠っていた。

 浄正の口から、ふっと軽い息が弾んで出る。
 花のひとつも置かれていなかった侘しい隠れ家は、彼にはもう必要ないらしい。








戻る 終り
目次


Copyright©2006 Riku Hidaka. All Rights Reserved.