一.


 涼しげな風鈴の音、軽やかな下駄の音、町行く人々の楽しそうな笑い声。
 ───それらの音の名は、夏。


「おとうさん、おとうさん! お客さんだよー」

 店番をしていた息子の(みこと)が走ってきて袖を引っ張った。
 棚の整理をしていた隆は止めた手を愛息の頭に載せて撫でてやり、足元に積んである未整理の反物に大判の紙を被せる。そこらに置きっぱなしにしておくと湿気を吸って虫が付いたり繊維が傷むので、ちょっと場を離れるだけでも必ず被せておく。たったこれだけの事だが、それで随分と違うのだ。

「ありがとう、命。一緒に来るかい?」
「うん。あのね、皓司のお兄ちゃんがおかめさんとゲイシャさん連れてきたの」
「皓司のお得意さんか。芸者を連れてくるなんて珍しいなあ」

 おかめさんも、と付け足した命に笑いながら、隆は店先へ出る。
 江戸一と名高い呉服問屋『瑠璃屋』は普段なら妻の光琉が切り盛りしているのだが、友達と一泊で温泉へ行っているので実家に戻ってきた。衛明館にいても毎日出陣するわけでなし。妻の気分転換は大いに賛成であり、いつでも遠慮なく出かけて欲しいと思う。それなのに彼女は根っからの商売好きで、出かけるのは年に三回あればいい方だった。息子に至っては店の仕事を覚えることに夢中で、たまには遊びに行こうと誘っても「おかあさんとお店する」のが一番楽しいらしい。
 夫としては有り難く、父としては少し寂しいと感じるのは贅沢だろうか。

 暖簾の内側、いわゆる土間の部分では一般客が気軽に見られるような簪や帯留めなどを陳列してある。さっきまで簪と鏡を相手に似合う似合わないだのとはしゃいでいた数人の若い女性が、新たな客に気づいてなんとも複雑な表情をした。

「やあ、いらっしゃい。お得意様はそちらの……」

 皓司の顔を見てから隣に立っている振袖の二人へ目を向ける。途端、隆は若い女性客と同じように口を開けたまま束の間放心した。
 連れの美女を自慢するかのように微笑んだ皓司が口を開く。

「こんにちは。光琉さんに夏の陣羽織をお願いしていたので、受け取りに参りました」
「ああ……虎卍隊のね。仕上がってるよ」
「おとうさん、ぼく持ってくる?」
「そう? じゃあお願いします」
「かしこまりましたーっ」

 店の奥へ走っていった命を見届け、隆は改めて振袖の二人に向き直った。

「宏幸と……甲斐?」
「私が入れ込んでいる芸者です」

 すかさず答えた皓司の隣で二人がぴくりと口端を引き攣らせた。
 笑うべきか、憐れむべきか。
 何ゆえ二人の班長にこんな恰好をさせたのかは知らないが、いやに愉しそうな皓司を見る限り衛明館での罰ゲームといったところだろう。綺麗に施された化粧も、見事に着付けられた振袖も、どれを取っても命が言った通り「おかめと芸者」であった。

「二人とも、よかったら簪でもあげようか?」
「お代は私が払いますので見繕って差し上げて下さい」

 職場でも外でも嫌なコンビだと思わずにいられない宏幸と甲斐は、視界の端でこちらを凝視している若い女たちの視線に晒されながら、今日何度目かの屈辱と涙を飲み込んだ。



 事の発端は二人揃って寝坊したのが原因だった。
 九日間という長丁場の四国遠征から戻ってきた虎卍隊一行は、衛明館に戻るなり各自早々に部屋へ篭って爆睡した。のが、一昨日の話。昨朝の寝坊ならいざ知らず、その翌日にまで寝坊した二人を隊長は寛容に受け流したのだが、平隊士が許さなかったのだ。

「班長の寝坊が隊の規律を乱すんだ!」
「斗上隊長、ここはビシーッと厳罰に処するべきです!」

 皓司が隊長になってからというもの、鍛錬の時間に合わせて行動する規則正しい生活習慣がついた虎卍隊の隊士達は、もはや時間厳守の魔物に取り憑かれたような剣幕で班長二人を罵る。

「朝メシの前に鬼のシゴキを……いや隊長自らの有り難い指導を受けて爽やかな汗を流すのが日課であるというのに、メシの最中にのこのこ起きてきやがった罪は重い!」

 広間に入るなり猛口撃を食らった宏幸と甲斐は、班長の権威も忘れて立ち尽くした。
 昔から早寝早起き体質の宏幸は、たまに寝坊することはあっても二日連続の記録は保持していない。甲斐は郭通いの平均日数を半分以下に切り詰め、毎日布団を干すことに精を出している。
 健全な生活に明け暮れる二人が寝坊した理由は当人達にもさっぱり分からなかった。

「罪罪ってお前ら、寝坊がそんなに悪いかよ!」

 宏幸はなんの反論にもなっていない文句を言いつつ、ちらりと皓司の顔色を窺う。猛特訓は望むところだが、今日明日はさすがに勘弁して欲しい。江戸より暑い四国での戦いは、通常の三倍は軽く消耗したのだ。どうせならピンピンしている相棒を扱いてくれと願う。
 しかし皓司は箸を進めながら涼しい顔で一言。

「構いませんよ。二人とも食事が冷めないうちに戴きなさい」

 耳を疑って耳鼻科へ駆け込むような返答だった。むしろ隊長を精神科へ連れて行かねばなるまい。あるいは朝食に何かよからぬ物が混ぜられているのか。隊士達は必然と自分の膳を見下ろし、生唾を飲み込んだ。
 宏幸と甲斐は素直に朝食を食べ始めたが、二人とも考えることは同じ。

(……後で絶対何かあるに違いない)

 とは思えど食後も厳罰だ制裁だと騒ぎ立てたのは隊士達だけで、皓司は黙り通した末に「ではこうしましょう」と提案した。

「二人の処罰は虎卍隊の隊士に決めて頂きましょう」
「ちょ、待った!」

 茶を吹きそうになった宏幸が手をあげる。

「だったら皓司さんに扱かれる方がいいっス! こいつらの考えることなんて……」
「隊長ーッ! 一班は全裸で逆立ち市中引き回しの刑がいいでっす!」
「二班は女装で帯回し! そんで一晩無抵抗のSMプ……」

 バキン、という音と共に甲斐の手の中で湯呑みが割れた。しかし二班隊士はこのチャンスを逃してなるかとばかりに班長への逆襲を企てる。一班の方がマシだとは思わないまでも、宏幸は二班の刑を想像してぞっとした。
 他隊の面々が面白そうに見守るなか、皓司は隊士達の意見を聞いて頷く。

「良いでしょう」
「いや全然よくないっスよ! フルチンだのSMだの、どんだけ下ネタなんスか!」
「今更恥ずかしがる事でもないでしょうに」
「つーか皓司さんだったらハイ分かりましたってやれますか!?」
「仕方のない人ですね。私も一緒にやってあげますから」
「すんません猛烈に発言間違えました」

 そんなわけで、最終的に一班と二班の意見を混ぜた『女装で市中引き回しの刑』が成立。
 何が悲しくて白粉を塗り、紅を引き、胸の下で帯を締めねばならないのか。
 完成した二人の女装姿を見て、一班のおネエmansは悲喜交々の野太い咆哮をあげていた。



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