猛獣たちの夏 - Episode 1 -
五、
どれくらい経っただろうか。エルが来たのが夕方の少し前、今は日が沈みかけている。
ということは、それほど時間は経っていない。
(……あっれ)
膝の上から静かな寝息が聞こえる。無法者は本当に寝てしまったらしい。白衣が皺になるのも構わず、シャツの襟を大きくはだけて。それはもう遊び疲れた子供のように。
(それってどうよ……)
いつ何をされるかと身構えていた自分が馬鹿みたいだ。
身体を動かさないようにそっと膝の上を覗き込むと、横向きで寝ていたエルが寝返りを打って仰向けになった。よく日に焼けた肌、整った目鼻立ち、無防備な寝顔。手に負えない猛獣のような奴が人の膝に頭を預けてすやすやと眠る様は、薄ら寒いと同時に奇妙でもある。
エルの寝息を聞きながら、いつの間にか俺の手は黄金の髪を撫でていた。
思えばエルの髪に触ったことなんて一度もない。発情した猛獣を押し退けようと掴んだことはあっても、こんな風に撫でたことはなかった。凌は頭を撫でられるのが好きだが、エルはどうなんだろう。気安く触るなと怒るだろうか。それともこんな無防備な寝顔を見せるくらいだから、何とも思わないだろうか。
「寝てりゃ可愛いのに」
つい口に出して呟くと、エルの目が薄っすら開いた。
悪いことをしていたわけでもないのに俺はぎくりとして手を止める。
「気持ちいい」
狸寝入りしていたのかと思ったが、エルは吐息まじりの擦れた声でそう言った。
瞼が重くて開かない。そんな気だるさを滲ませて。
「続き」
「はいはい」
もっとして、ぐらい可愛くねだってみろと思えど、その台詞は何か気持ち悪い。
再びゆっくりと髪を撫でる。エルは本当に気持ち良さそうに深く息を吐いた。
「なあ、エル」
「んー」
目を閉じてても意識はまだあるようだ。完全に眠れば返事もしなくなる。
「沙霧と違ってお前は正真正銘の人間なんだから、あんま無理すんじゃねえよ」
エルの顔にちらつく疲労の影は思ったよりも濃い。これが三十、四十の大人なら分かるが、エルはまだ十九だ。仕事も遊びも気負わず楽しめる年頃なのに、その額に掌を当てるとまるで何十年も仕事漬けのような“気”がどっと流れてくる。
手抜きのない人生がいいならそれもいい。
だが身体を酷使してまで一つの事に打ち込むと、やがて人間の身は滅びるものだ。
気力でどうにかなるとはよく言うが、身体に鞭を打ち続けて寿命を削っているだけに過ぎない。そうと知らずに気力で乗り越え自分に打ち勝ったようなつもりになる人間が愚かで、しかし究極に愛しい生き物だと感じる。
「何でも全力でやるお前は尊敬に値するよ。でもな、人間っててめぇらが思ってるほど寿命長くないんだぜ? もともと少ししかない。長くするも短くするも生き方次第だ」
「俺がいつ早死にしたいなんて言ったよ?」
自覚のなさがその可能性を強めていると気付かないのだ。
「俺は、お前に長生きして欲しい」
自分にとって人間の一生はあっという間。
これまでの長い長い歳月を振り返れば百年やそこらなんて一瞬の出来事だ。
だからこそ、生きて欲しいと願う。
全ての人間にそれを願ってやるほど万能じゃない。
大切な者だけを選んで手元に置く───
「都合のいいカミサマだな」
それが神というもの。
大切な者が早死にしようと損は無し、そうでない者が長生きしたところで得も無し。
ならどうして生きて欲しいと願うのか───
「都合がよくなきゃ面白くないだろ」
それが、俺のやり方だから。
「OK,じゃ長生きできるよう今から俺に尽くせ」
エルは呆れるほど憎らしい顔でにやりと笑った。
「今からって、もう尽くしてるだろ。膝枕に愛撫に子守唄まで至れり尽くせりだ」
「あと一つ」
何を要求しようとしているのか検討もつかないが、いや検討がつきすぎて畳に頭を落としてやろうかと思うほどだったが、とりあえず聞くだけは聞いてやる。半眼無言で見下ろすと、エルは腕を伸ばして俺の頬にちょんと触った。
「おやすみのキスして」
……なんだ、そんな簡単なこと。
エルの手を押し下げて身を屈め、憎たらしい唇に自分のそれを重ねた。
ただ触れるだけの接吻。
ただ触れられることの幸福。
そのぬくもりさえもがいつかは瞬く間の過去になる。
「おやすみ。エル」
唇を離し、また髪を梳くように頭を撫でてやった。膝の上の顔はなぜか茫然。自分からしろと言ったくせに驚いているんだろうか。
やがて満足げに瞼を閉じた猛獣は、ゆっくりと安息の地の底へ落ちていった。
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