2009年だけど隠密衆は永遠に1706年なのだよ
あけおめスペシャル今年もよろしく!





■■上野・葛西邸の正月■■


「もうヤだったらヤーッ!痛い!」
「すぐ楽になる。ちと我慢しろ」
「浄正のデカチン!馬並み!ケダモノーッ!」
「ちょ……近所に聞こえるだろうが!」

 正月日和で雲ひとつない快晴。上野の屋敷では昼早々から姫初め……ではなく、妻のりんが凧揚げをした事がないというので教えてやっているのだ。
 りんの手に凧糸を巻きつけ、浄正が凧を持って走らせる。とはいえ気前よく大凧なんぞを買ってしまったせいで、風の重みに小柄なりんの体が浮く始末。凧と一緒に妻が飛んでいっては笑い話にもならない。仕方なく従属の飛車を呼び、彼に凧を持たせて自分はりんを抱えながら走るという荒技に出た。これぞ夫婦の営みだ。
 しかし糸が手に食い込んで痛い痛いと喚くばかりで、凧揚げのタの字も楽しんでもらえず。

「浄正様、手ぬぐいを巻いて差し上げれば良いのでは?」

 凧持ちにうんざりしたのか、普段は無口な飛車が呆れ顔で助言してくる。

「あーそうだな。そうしよう、りん」
「りん疲れた。もうヤだ。浄正が飛ばしてちょーだい」

 凧揚げをしたいと言い出した本人がこれだ。今年は丑年だからウシを空に飛ばしてあげようなどと可愛いことを言い、牛の絵が描かれた大凧を選んだ時のあの嬉しそうな顔が今はむくれっ面以外の何物でもない。
 真っ赤になった手を開いて凧糸を解き始めたりんの頭に手を乗せ、ぐるりと首を回した。

「風に乗ったらあとは楽だぞ。もうちょいだから一緒にやろう、な?」

 別に妻の機嫌を取りたいわけではない。その意向は汲んでくれたのか、りんは口を突き出してブーと唸りながら右手を顔の前に伸ばしてくる。

「分かった、あと一回だけだかんね。これ巻き直して」

 なんだかんだ言いつつも最近は『一緒に』の言葉で落ち着いた。
 決しておしどり夫婦ではないが、喧嘩らしい喧嘩をしたのも数えるほどしかない。喧嘩するほど仲が良いとはいえ、しないで済めばそれに越した事はないのだ。
 手拭いの上から凧糸を巻きつけると、脇に抱えるのではなくおんぶしろという。

「凧に引っ張られて落ちたら危ないだろ」
「黄金期の元御頭が女を地面に落とすようなヘマすんの?」
「こんな時ばっかり女女って……俺はフェミニストじゃないぞ」

 背中によじ登って肩口からひょいと顔を出したりんに頬をつねられる。

「じゃ愛妻家でいーよ。妻を地面に落としたらいけません」

 さあ走れ、と馬扱いさながらに腿を蹴られ、浄正は広い庭を一直線に駆けた。

「しっかり引っ張れよ、りん!」
「あいあいさー!」

 飛車の手から凧が放れる。よたよたと重そうに宙を彷徨っていた牛が突如すうっと上空へ舞い上がり、風に乗って尾をはためかせた。浄正の首にしがみついていたりんが振り返って歓声を上げ、背中でピョンピョンと跳ねる。

「飛んでるー!みてみて浄正、ウシが飛んでるよ!」
「くっ、苦しい……!首離せ!」
「離したらりん飛んでっちゃうもん!」
「抱っこにしよう、ほれ前こい!」

 りんの襟首を掴み、背中から前へ強引に移して抱き止めた。体重が軽くて何よりだ。
 足を止めて空を仰ぎ見る。凧の高度が下がってきたら糸を引いて別の風に乗せるんだと教えると、りんは面白そうに糸を手繰り寄せたりとすっかり夢中だった。

「ウシって浄正みたいだよね。でっかいのになんか間抜けなの」
「でも黒い牛は闘ったら強いんだぞ」
「ブチのウシは?」
「ありゃ乳が搾れるだけだ」

 そう言ってから、何とはなしにりんの胸を掴んでみる。

「ちっとも育たんな……」
「公然ワイセツで絞首刑ーッ!」
「ぐあっ!」

 凧糸を首に巻きつけられ、本気で窒息しそうになった。風の引力で絞まっていく糸と格闘するのは黄金期の元御頭であっても無理だ。刀があれば切れるが、切ったら切ったで今度は牛がいなくなったと大騒ぎだろう。あたふたと引き寄せられるままに後退し、庭の障害物を必死で跨ぎ越す。
 と、進行方向へ白い物体が飛び出してきた。

「あーっ!お前少しは空気読め!!」

 これを踏み潰したとあらば後日とてつもない地獄を見ることになる。
 踏み潰してでも妻の安全を守るべきか、妻を放り出してでも地獄を避けるべきか───すでに自分の息の根が危ういことも忘れ、浄正は今すぐ空へ飛びたい心境だった。

「落ち着いて下さい浄正様」

 背後に忍び寄った影が寸でのところで押し留める。白い物体が足元できょとんと瞬いた。

「助かったぞ、鴇。さすが忍びの中の忍びだな」

 答える代わりに控えめな嘆息を零した飛車が、首に絡まった凧糸を解いてくれる。耳元に聞こえたりんの舌打ちは聞かなかったことにしよう。

「こらウサ子、お前はあっちで遊びなさい。滑り台作ってやっただろ」
「その滑り台ですが、兎の体重に耐えられず壊れたようです」

 飛車の指差す方を見ると、庭の隅に作ってやったうさぎ用の滑り台が姿を消していた。あった場所には木片が散らばるのみ。これで三つの遊具が破壊されたことになる。

「どんだけ肥えたんだウサ子……」
「浄正が甘やかして食べ物あげるからでしょー」
「お前も与えてるだろ。お菓子とかお菓子とかお菓子とか」
「あげてるんじゃなくて勝手に食べちゃうんだもん」

 一年前に初詣へ行った時、あの皓司が初めて「欲しい」とねだった仔うさぎ。手のひらに乗せてもまだ余るほど小さかったこいつは、今じゃそこらの野良猫よりでかくなってしまった。皓司がいなくなった現在も主人はただ一人と忠兎ぶりを発揮し、浄正やりんのことはエサをくれる人間とでも思っているらしい。

「どうせ育つならりんの貧乳が育てばいいのにな」
「死にたいの?死にたいのね?」

 妻という人種に縄や刃物を持たせるとすべからく凶器になるのはどこの家庭も同じか。
 冗談だと呟いて空を見上げると、凧はやる気を失くして屋根の上に落ちていた。りんは手ぬぐいごと凧糸を放り投げて腕から飛び降りる。

「つまんなーい。りん、お正月は楽しいことしたいの」
「なら俺とにゃんにゃん」
「そうだ、鴇!忍びごっこしましょ」

 ごっこも何も鴇は立派な忍びなのだが、りんが言いたいのは鬼ごっこのことだった。
 浄正が鬼で、私を見つけられたら私の着物をひとつ買うこと、鴇を見つけられたら私の着物をふたつ買うこと、などとまったく自分の事しか考えてない無邪気な妻を横目に、浄正は遁走しようとした飛車の肩を掴んで引き止める。

「こうなったら一蓮托生だ。最後まで付き合え」
「お戯れが過ぎますれば何卒ご勘弁を。我は影の身ゆえ」
「たまには健全な生活もいいだろ。そら、数えるぞー」

 飛車にはすまないと思うが、りんが楽しんでくれれば願ったり叶ったり。
 ほとほと妻に甘い自分を再確認して、浄正は百を数え始めた。







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